サウジ戦の前に。

U19がアジアを制した。
素晴らしい事だ。勿論、決勝はPKだったし記録上は「引き分け」に限りなく近いが優勝したのは日本だ。それは間違いない。

セルジオ翁がどんな事を書くのか今から楽しみで仕方ないが、準決勝に勝った時は「粒が小さい」とか「中田や高原、香川はいない」とか書いていた。

別にセルジオ翁の意見云々に物申す気はない。

ただ、
現行代表の戦術浸透とタレントという問題と、
日本サッカーの未来という問題とを、
完全に同じ基準では測れないし、
「誰かが苦言を呈すべき」
という姿勢で有る事無い事文句をつけるのは最早時代錯誤なのではないかと僕は感じている。

オーストラリアとの一戦を観て、非常に退屈なゲームだと思った反面、これだけ退屈なアウエーの闘いをしている日本を珍しいとも思った。今までなら、アジアであれなんであれ「イケイケ」だった代表が「アウエーとは?」「ホームとは?」という戦術的相違を持ち込んで予選を戦っている事が僕には驚きだった。
ただ、ホームでホームらしい結果を出して日本のファンを喜ばせ、アウエーで専門家たちを唸らせたかと言えばそんなレベルには達してはいない。そう、そんなレベルには達していない、というだけなのだ。
「自分たちのサッカー」「試合勘」「アジアレベル」これらの単語のどれを取っても、正直に言えば日本のサッカーの正しい部分とは関係ないと僕は考えている。ACLを見たって「アジアレベル」というのはもはや一定の世界基準の中にあるし、「自分たちのサッカー」なんて物が世界には響かないのもワールドカップで証明され、「試合勘」というのがミスと何処まで密接に関わっているか、誰が立証できるというのだろう?それが問題なら1日に3試合くらいする名門高校のセンターフォワードなら点が取れるのだろうか?

日本のサッカーが世界基準になるためには様々な条件がある。「ワールドクラスの選手」「タクティクス」「環境」「発想」それこそ挙げたらきりがない。では、いまどれはその域に達しているのだろう?
僕はたった一つ「タクティクス」だと思う。それにしたって、世界と戦えるという意味でじゃない。世界を知るための卑屈な手段として「タクティクス」があるだけだ。アジアでもホームとアウエーの闘い方を分けるとか、オフェンスとディフェンスのバランスとか、海外組という威圧(相手の国の選手が「誰こいつ?」と思う選手でなく「本田だ!」とか「香川だ!」とか思う事によって起こる様々なプレッシャー)とか、相手の良さを消す事と自分たちの長所を出す事とか、これらは段階を踏んで、然るべき相手との対戦の中で育み、培われていくものなのだ。そして、これらを遂行するためには「環境」の整備が必要であり、「発想」の豊かさを求められ、その上でタクティクスを必要としない規定外の「ワールドクラスの選手」の登場が待たれるのだ。例えばこれらがうまく噛み合っているのがユーロを制したポルトガルだと思う。こうなっていかなくては、世界基準のサッカーをする事は出来ないし、強さは一過性のものでしかなくなるのだ。では、日本はいまどの辺りを歩いているのか?
それを考えたら、やはり「タクティクス」しか仕方ないし、そのための監督人事だと思う。だからこそ外国人監督を使い続けているのではないのか?

日本、という国を鑑みると。
演出家とか監督とか。
フィーリングの人が多過ぎて、僕は笑ってしまう。
本質は「タクティクス」じゃないだろうか?
役者さんと、プレーヤーと、観客と、相手チームと、
どう向き合うか?
理路整然とした勉強を積んで、ロジックの上に毅然として聳え立つタクティクスを訓練されたプレーヤーがミッションを伴って遂行すること。
これこそが、日本の社会に必要な本当の意味での国際化ではないだろうか?日本はプロ野球の監督のようにライセンスを必要としてない現場主義(として都合よく扱われてる事案)が多過ぎる。いや、勿論、資格が全てだと言ってるのではない。しかし、フィーリングによって「誰でもなれる」仕事が溢れた日本で、消費者や視聴者、観客たちは本質的なプロフェッショナルへの羨望や憧憬を得ることが可能だろうか?僕はここにこそ問題の根幹があるのだと思う。

ともかく。
日本のサッカーを「日本化」するのでなく「国際化」するという方向でロシアを目指して欲しい。もう「自分たちのサッカー」などないのだ。それについては、真実なのだ。

konishi について

1977年6月26日生 京都出身 蟹座 A型 巳年 夢は文化人になること 目標は演劇集団アクト青山を100年続く劇団にすること!
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