ゆく年くる年。

本当に。

本当にいろんな事のあった2016年も終わり。

来年もよろしくお願いします。

来年は更に精進します。

 

 

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パラダイムシフト。

例えばの話。

日本代表監督のハリルホジッチが、
「縦に速いサッカー」
を、掲げて代表選手たちも勿論取り組んでいる。
でも最近、
「無理に縦に速い必要はない。時にはボールを回しても良いはず」
と、言っていたりする。
無論、現場の声は大切で、出来ることと出来ないことがあると思う。

でも。
でも、だ、
敢えて言わせてもらえるなら、

価値観が変革を起こすほど縦に速いサッカーをしようとしてるか?

と言われたら、答えはNOじゃないだろうか。
いや、何も代表のサッカーにケチをつけたいんじゃない。

僕は僕のこの一年の仕事を振り返って、自分に対する不満と未熟さと愚かさに反吐が出そうなのだ。

代表は縦に縦に速くサッカーをして来た結果として、オーストラリア戦でのカウンターを成功させてるのだ。きっと、縦に速いサッカーをする中で既存の価値観が変革を起こす瞬間に出会ったのだ。

徹底力。

これだと思う。
正しいか間違ってるかではなく、
徹底できるか。
そこにだけ、変革を起こす何かが待ってるのだ。

最近流行りの言葉にしてみたら、
パラダイムシフト
だと思う。
徹底するにも、パラダイムシフトするにも、
重要なのは、
先ずは己を信じる事。
次に信じている己が信じれるものを見出す事。
どんな時も人間は独りでは非力だ。
徹底するというプリンシプルを立ち上げたら、
その仲間が必要なのだ。
今年、
僕は本当に強くそれを痛感した。

今までとは違う角度で、
今までとは違う見方で、
今までとは違う速度で、
縦に速くしてみようと思う。
その偏りからしか学べない事を学ぼうと思う。
そこにだけ答え「パラダイムシフト」が在る。

それが出来ないなら。
この世界をやめよう。
無いのは才能じゃない、情熱なのだから。
才能より情熱だ。
人が本当に愛すべきは、
才能より情熱なのだ。

パラダイムシフト。
悪くない。
徹底力不足を、来年はやめる。
来年やめるのは、徹底力不足。
よし。
頑張ろう。

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プラズマ宇宙論

いま、勉強してるので。
全部は書けないけど。

「プラズマ宇宙論」

がね。凄く好きで。
勉強すればするほど、僕のココロと溶け合って。
ビッグバンの方がきっと浪漫があるんだと、そう思うんだけど。
それでも、僕は「プラズマ宇宙論」を信じて勉強するのだ。

遡る

例えばね。この漢字。
さかのぼる。
逆+月
で成り立ってるんだけど、
これは月がまた元に戻るさまを表してるみたい。
つまり。満ち欠け。
僕は今日のこの瞬間から月の満ち欠けを何度も遡って宇宙のスタートを目指してるわけ。
毎日毎日ね。

いや、何のためって言われても困るけど。
台本を書いてるから。
そのお話は人間が過ごしてきた、
ある時に取り決められた「60秒」を、
「1分」を、「60分」を、「1時間」を。
進んだり遡って創られているはなしだから。
「プラズマ宇宙論」を基にして。

さて。
今年もあと僅かだ。
気合い入れていかなきゃ。

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前前前夜(笑)

演劇集団アクト青山主宰の小西です。

『野鴨』が終わって一週間経ちました。
『野鴨』が終わって一週間経ちました。

嘘みたいです。
本当に嘘みたい。
なんですかね、こんなに一瞬で一週間が過ぎてしまうなんて。

『野鴨』の次は『かもめ』です。

もーね、
ちょっとギャグです、これ。
劇団員は、
イプセンの『野鴨』演って、
チェーホフの『かもめ』演って、
書き下ろしの『海猫は泣いている』を演る。

『野鴨』→『かもめ』→『海猫は泣いている』

です。
水鳥(笑)全部、水鳥。

そんな『かもめ』顔合わせ前夜。
眠れないです。
なんでか知らないけど。
雨音が窓の外を静かに鳴らして、
アスファルトを黒く濡らして、
明日が来るのを確かに遅らせて、
僕の喉を締め付けるように枯らせています。

チェーホフ。

楽しみです。
心が身体を追い越すような半年を過ごそうと思います。
この世界に住んで20年。
やっと目を覚ました僕の。
新しいチェーホフを。

 

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サウジ戦の前に。

U19がアジアを制した。
素晴らしい事だ。勿論、決勝はPKだったし記録上は「引き分け」に限りなく近いが優勝したのは日本だ。それは間違いない。

セルジオ翁がどんな事を書くのか今から楽しみで仕方ないが、準決勝に勝った時は「粒が小さい」とか「中田や高原、香川はいない」とか書いていた。

別にセルジオ翁の意見云々に物申す気はない。

ただ、
現行代表の戦術浸透とタレントという問題と、
日本サッカーの未来という問題とを、
完全に同じ基準では測れないし、
「誰かが苦言を呈すべき」
という姿勢で有る事無い事文句をつけるのは最早時代錯誤なのではないかと僕は感じている。

オーストラリアとの一戦を観て、非常に退屈なゲームだと思った反面、これだけ退屈なアウエーの闘いをしている日本を珍しいとも思った。今までなら、アジアであれなんであれ「イケイケ」だった代表が「アウエーとは?」「ホームとは?」という戦術的相違を持ち込んで予選を戦っている事が僕には驚きだった。
ただ、ホームでホームらしい結果を出して日本のファンを喜ばせ、アウエーで専門家たちを唸らせたかと言えばそんなレベルには達してはいない。そう、そんなレベルには達していない、というだけなのだ。
「自分たちのサッカー」「試合勘」「アジアレベル」これらの単語のどれを取っても、正直に言えば日本のサッカーの正しい部分とは関係ないと僕は考えている。ACLを見たって「アジアレベル」というのはもはや一定の世界基準の中にあるし、「自分たちのサッカー」なんて物が世界には響かないのもワールドカップで証明され、「試合勘」というのがミスと何処まで密接に関わっているか、誰が立証できるというのだろう?それが問題なら1日に3試合くらいする名門高校のセンターフォワードなら点が取れるのだろうか?

日本のサッカーが世界基準になるためには様々な条件がある。「ワールドクラスの選手」「タクティクス」「環境」「発想」それこそ挙げたらきりがない。では、いまどれはその域に達しているのだろう?
僕はたった一つ「タクティクス」だと思う。それにしたって、世界と戦えるという意味でじゃない。世界を知るための卑屈な手段として「タクティクス」があるだけだ。アジアでもホームとアウエーの闘い方を分けるとか、オフェンスとディフェンスのバランスとか、海外組という威圧(相手の国の選手が「誰こいつ?」と思う選手でなく「本田だ!」とか「香川だ!」とか思う事によって起こる様々なプレッシャー)とか、相手の良さを消す事と自分たちの長所を出す事とか、これらは段階を踏んで、然るべき相手との対戦の中で育み、培われていくものなのだ。そして、これらを遂行するためには「環境」の整備が必要であり、「発想」の豊かさを求められ、その上でタクティクスを必要としない規定外の「ワールドクラスの選手」の登場が待たれるのだ。例えばこれらがうまく噛み合っているのがユーロを制したポルトガルだと思う。こうなっていかなくては、世界基準のサッカーをする事は出来ないし、強さは一過性のものでしかなくなるのだ。では、日本はいまどの辺りを歩いているのか?
それを考えたら、やはり「タクティクス」しか仕方ないし、そのための監督人事だと思う。だからこそ外国人監督を使い続けているのではないのか?

日本、という国を鑑みると。
演出家とか監督とか。
フィーリングの人が多過ぎて、僕は笑ってしまう。
本質は「タクティクス」じゃないだろうか?
役者さんと、プレーヤーと、観客と、相手チームと、
どう向き合うか?
理路整然とした勉強を積んで、ロジックの上に毅然として聳え立つタクティクスを訓練されたプレーヤーがミッションを伴って遂行すること。
これこそが、日本の社会に必要な本当の意味での国際化ではないだろうか?日本はプロ野球の監督のようにライセンスを必要としてない現場主義(として都合よく扱われてる事案)が多過ぎる。いや、勿論、資格が全てだと言ってるのではない。しかし、フィーリングによって「誰でもなれる」仕事が溢れた日本で、消費者や視聴者、観客たちは本質的なプロフェッショナルへの羨望や憧憬を得ることが可能だろうか?僕はここにこそ問題の根幹があるのだと思う。

ともかく。
日本のサッカーを「日本化」するのでなく「国際化」するという方向でロシアを目指して欲しい。もう「自分たちのサッカー」などないのだ。それについては、真実なのだ。

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